2024/06/07 09:12
堤防のミー
プロローグ
とある田舎町の寂れた漁港に、一匹のメスの野良猫がいました。まだ若い猫で、痩せていて灰色の毛並みが特徴です。
その猫の暮らす漁港は知る人ぞ知る釣りの隠れた名所で、休日には決して多くはありませんが、十人ほどいる地元の釣り師たちがやってきます。
堤防のミー
人懐っこいその野良猫は、そんな釣り師たちのまわりを「ミーミー」と甘えるような声で鳴きながらうろつき、釣り師たちがいらない小さな魚をわけてもらって生きています。
でも、彼女は人間に触られる距離までは絶対に近づきません。彼女と人間に何があったか、知る由もありませんが、地元の釣り師たちはよく分かっていて、少し離れた距離から彼女に魚を投げてあげます。
そして、釣り師たちが帰ると、彼女はその漁港の古い堤防の割れ目に身を潜めて眠りにつきます。
いつしか、釣り師たちは彼女のことを「堤防のミー」「釣り猫のミー」と呼ぶようになりました。
老人
休みの日には地元の釣り師たちで賑わうその漁港ですが、平日にはほとんど誰も訪れません。
でも、誰も来ないわけではありません。ミーの堤防に平日でも訪れる人が3人います。
一番よく来るのは、地元に住む80歳近い老人です。奥さんに先立たれて一人暮らしのその老人は釣りだけが生きがいとこぼしています。
もともと、老人が釣りを始めたのは魚料理が大好きだった奥さんに、たくさん魚を食べてもらいたかったからなのですが、もうそれはずいぶん昔の話で、今となってはなんで自分が釣りが好きなのか、深く考えることもなくなりました。
一人暮らしの老人は、それほど多くの魚を食べるわけでもないので、いつもたくさんの魚、時にはお店で売っているような立派な魚もミーにくれたりします。
老人は釣りだけが生きがい、と人には言いますが、本当は釣りとミーに会うのが生きがいでした。
師匠
次によく来るのは、地元の釣り師たちから「師匠」と呼ばれる50代のおじさんです。元々は会社員でしたが、釣りにのめり込みすぎて会社をクビになり、今は早朝や深夜のコンビニバイトをして一人暮らしをしています。
師匠は釣りの玄人なので、日没前後の夕マズメと呼ばれる時間によく現れます。
ですので、老人とは堤防で入れ違いになることがほとんどですが、時々世間話や釣りの情報交換などをしています。
ミーにとっては、絶対に魚を釣ってくれる頼もしい人で、特に夕方まで餌にありつけなかった日には、師匠からもらう魚が楽しみでしかたありません。
少年
最後の常連さんは、漁港のすぐ近くに母親と二人暮らしをしている少年で、毎日小学校が終わると、一目散に堤防にやってきます。
少年は、もともとは都会生まれでしたが両親が離婚し、母親の故郷であるこの漁港の町にやってきたのです。
見ず知らずの土地で、話し方も訛りのない都会の話し方なので、クラスのみんなには馴染めず、学校ではいつもポツンと一人でいました。
また、同級生たちはみんなゲームやサッカーの虜なのですが、都会で自然を知らずに育った少年は、引っ越してきたこの町に広がる豊かな海とそこに暮らす生き物たちに夢中でした。
なので、学校が終わると一目散に堤防に直行する毎日を送っていました。日常で話をする人は老人と師匠だけなのですが、少年はちっとも寂しくありません。むしろ、釣りの上手な2人にたくさんのことを教えてもらって幸せでした。
そんな3人と1匹、そして優しい地元の釣り師たちがのんびりと過ごす場所、それがミーの堤防だったのです。
変化
そんな、のどかで優しい漁港に変化が訪れました。
誰かがインターネットに「この漁港の古い堤防はとても魚が釣れる」ことを書き込んだのです。
それからというもの、土日になると都会からたくさんの釣り客が訪れるようになりました。
よその土地に愛着のない都会の釣り客のなかには、ゴミを捨てたり、堤防を汚したりするマナーの悪い人たちも少なからずおり、なかにはミーに毒のあるフグやゴンズイを投げつける意地悪な人たちもいます。
もちろん、堤防育ちのミーは毒のある魚を食べたりはしませんが、なんだか居づらいのか、休日は空腹に耐えながら堤防の割れ目でじっとしていることが多くなりました。
そんな雰囲気の場所になってしまったので、休日は老人も師匠も少年も、もうその古い堤防には来なくなりました。
3人と1匹が以前のように過ごせるのは、平日だけになってしまったのです。
ある日の出来事
ある平日の昼下がり、普段は老人だけなのですが、その日はたまたま昼釣りをしたくなった師匠、学校行事で下校の早かった少年、の3人が昼間から一緒に釣りをしていました。
いつもはミーミーと魚をねだるミーですが、灯台の土台に寄りかかり、元気なくうずくまっていました。
これはおかしい。
気づいた3人はミーに近づいて様子を見てみました。
なんと、ミーの口には誰かが捨てた釣り針が刺さっており、膿んで口を開くこともできません。
普段は触ることのできないミーですが、この日は逃げる力も残っていませんでした。
師匠がミー抱きかかえ、老人がミーの口を傷つけないように丁寧に針を抜きました。少年は家から消毒薬や水を持ってきました。
このようなことで、ミーは大事には至らず、元気を取り戻していきました。
この出来事から、3人と1匹には小さな変化が訪れました。
ミーが、この3人の人間だけには足元まで寄ってくるようになったのです。
それでも3人は、けっして手でミーに触れようとはしませんでした。それが、3人と1匹の新しいルールになりました。
日課
その日を境に、老人・師匠・少年には新たな日課が始まりました。
そう、堤防や漁港や海岸のゴミ拾いです。
都会の釣り客が残すゴミには、ミーだけでなく海鳥たちにも危険な釣り糸や釣り針が混じっています。
ゴミ拾いは少し大変ですが、それでも平日には、3人と1匹の穏やかな日々が続いていきました。
この頃から、子どもに恵まれなかった老人は、師匠と少年のことを自分の息子や孫のように思うようになりましたが、照れくさくて結局一度も口にはしませんでした。
別の日の出来事
別のある日のことです。この日も珍しく昼過ぎに3人と1匹が揃った昼下がりでした。
老人とミーはいつもの堤防、師匠と少年は少し離れたテトラポットのあたりで穴釣りをしていました。
ふとしたはずみに、老人は足をすべらせ海に落ちてしまいました。
離れた場所にいる二人は気づきません。
すると、ミーがこれまで出したことのないような大きな声で鳴き始めました。
異変に気づいて駆けつけた2人、普段からライフジャケットを着ている師匠は迷うことなく海に飛び込み、無事に老人を助けることができました。
危なかったですが、後になるといつも3人の笑い話にのネタになっている出来事です。
この出来事から、老人はもっともっと、この堤防が好きになっていったのです。
2人と1匹
それから数年後のこと、あれだけ毎日毎日、堤防に来ていた老人の姿が見られなくなりました。
どうしたんだろう?
師匠も少年も老人のことが心配でたまりませんでしたが、3人は堤防で会うだけの関係、詳しい事情はわかりません。
不安な気持ちを抱えながら過ごす、2人と1匹の日々が続きました。
実は、病を患い、余命宣告を受けた老人は漁港の見える丘の上のホスピスで毎日海を見ながら、残りの時間を送っていました。
遠くに小さく見える漁港、老人は1日たりももミーや2人のことを思わない日はありませんでした。
海に行きたい、ミーに会いたい、そんな気持ちで張り裂けそうになりながら、老人は毎日海を眺めていました。
1匹
そうしている間に、師匠と少年の2人にもそれぞれに人生の転機が訪れました。師匠はずっと探していた釣りの仕事がやっと見つかり、遠く離れた南のほうに引っ越していきました。
少年は、母親の再婚が決まり、また遠くの都会へ引っ越していきました。
1匹になったミー、休日は都会から来るたくさんの釣り客から逃げるように堤防の割れ目で息を潜めて過ごし、平日は誰もいない堤防で釣り客の残した釣り餌をあさったり、フナムシを捕まえて食べる日々が続きました。
そして、ミーは少しずつ少しずつ痩せていきました。
釣り猫と老人と海
その冬、老人の死期はもう目前でした。その頃になると、病と薬のせいで、老人は夢と現実の区別ができないような状態でした。
夢には若かった頃の奥さん、そしてミーたちがごちゃまぜになって現れます。
ある日の夜明け前、老人はふっと身体中の痛みが消えました。
「妻に釣りたての魚を食べさせてあげよう。ミーにも魚を釣ってあげないと。」
そう思いたった老人は使うこともなく病室に置いてあった釣り竿を握り、ゆっくりとゆっくりと堤防にむかったのです。
夜明け
そこには、釣り竿を握り、灯台の土台に腰掛けたまま息を引き取った老人と、その足元にもうミーミーと鳴かなくなった猫がいました。
エピローグ
老人が亡くなって数カ月後、漁港に面した小さな私有地で工事が始まりました。
建てられたのは海を見渡せる東屋です。
それは、老人の遺言書にしたがい、老人のほんの少しの遺産で建てられたものでした。
東屋には、釣り客が自由に使えるコンクリートの椅子とテーブル、何よりもゴミ箱が設置されたのです。
そして、コンクリートのテーブルの土台には、ミーだけが出入りできる小さな穴が開けられていました。
※この物語は釣り好きの当ショップ店長が、事実に基づいて書いたお話ですが、あくまでも創作作品であり、登場する場所や人物は全て架空のものです。また、この物語の著作権はFutamiTC/MazurenkoJapanに帰属し、いかなる転載ならびに改変もこれを認めません。
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釣り好き店長の執筆記事